元良親王

元良親王の和歌

短 歌
わびぬれば今はたおなじ難波なるみをつくしても逢はむとぞ思ふ
意 味
うわさが立ってしまってはもう身を捨てたも同じです。それならいっそのこと難波にあるみおつくしという名のように、身を滅ぼしてもあなたに会いたいのです

元良親王の人物像

元良親王(もとよししんのう、890年(寛平2年) - 943年9月3日(天慶6年7月26日))は平安時代中期の皇族、歌人。陽成天皇の第一皇子であるが、父帝の譲位後に生まれた。母は藤原遠長の娘。同母弟に元平親王。三品兵部卿にまで昇った。妻室には、神祇伯藤原邦隆女・修子内親王(醍醐天皇皇女)・誨子内親王(宇多天皇皇女)らがいる。子に佐材王・佐時王・佐頼王・佐兼王・源佐芸・源佐平・源佐親らがいた。 延喜3年(903年)及び延喜7年に、当年巡給により年給を賜る。延長7年(929年)10月、彼の四十の算賀に際して妻の修子内親王は紀貫之に屏風歌を作らせた。承平6年(936年)3月、右大臣藤原仲平らともに醍醐寺に塔の心柱を施入した。天慶6年7月26日に薨去。 色好みの風流人として知られ大和物語や今昔物語集に逸話が残るが、とくに宇多院の妃藤原褒子との恋愛が知られる。 後撰和歌集に20首入集した他、『元良親王集』という歌集も後世になって作られている。 元良親王(もとよししんのう)
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