源宗于朝臣

源宗于朝臣の和歌

短 歌
山里は冬ぞ寂しさまさりける 人目も草もかれぬと思へば
意 味
山里はとりわけ冬がさびしく感じられるようだ。人も訪ねてこないし、草木も枯れてしまうと思うと。

源宗于朝臣の人物像

源 宗于(みなもと の むねゆき、生年不詳 - 天慶2年11月22日(940年1月9日))は、平安時代前期から中期にかけての官人・歌人。光孝天皇の皇子是忠親王の子。娘に閑院大君がいる。官位は正四位下・右京大夫。三十六歌仙の一人。 源宗于朝臣(みなもとのむねゆきあそん)

源宗于朝臣の経歴

894年(寛平6年)源姓を賜与され、臣籍降下する。丹波権守、摂津権守、三河権守、相模権守、信濃権守、伊勢権守などの国司を務めるなど地方官を歴任し、また兵部大輔、右馬頭を務めた。天慶2年(939年)正四位下・右京大夫に昇進したが、翌年に没した。 「寛平后宮歌合」などの歌合に参加、紀貫之などと交流があった。『古今和歌集』(6首)以下の勅撰和歌集に15首入集[1]。家集に『宗于集』がある。『大和物語』に右京大夫として登場する。

源宗于朝臣の逸話

『大和物語』には、宗于が自分の官位があがらないことを宇多天皇に嘆く話が載せられている。宇多天皇が紀伊の国から石のついた海松という海草を奉ったことを題として、人々が歌を詠んだとき、宗于は「沖つ風ふけゐの浦に立つ浪のなごりにさへやわれはしづまぬ(=沖から風が吹いて、吹井の浦に波が立ちますが、石のついた海松のようなわたくしは、その余波によってさえ波打ちぎわにもうち寄せられず、底に沈んだままでいるのでしょうか)」という歌を詠んで、自分の思いを伝えようとした。しかし、宇多天皇は「なんのことだろうか。この歌の意味が分からない」と側近の者にお話になっただけで効果はなかったという。
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