壬生忠岑

壬生忠岑の和歌

短 歌
有明のつれなく見えし別れより 暁ばかり憂きものはなし
意 味
有明の月が女との別れのときにそ知らぬ顔して空にかかっているのを見て以来、暁ほどつらく悲しいものはないようになった。

壬生忠岑の人物像

壬生忠岑(みぶ の ただみね、貞観2年(860年)頃 - 延喜20年(920年)頃)は、平安時代前期の歌人。三十六歌仙の一人。甲斐国造家の壬生直の一族で、従五位下・壬生安綱の子、あるいはある木工允・壬生忠衡の子の説があるが、『三十六人歌仙伝』では「先祖不見」とあり、『歌仙伝』の方が古体であることを考慮すれば、不明であるとするのが穏当とされる。子におなじく三十六歌仙の一人である壬生忠見がいる。 壬生忠岑(みぶのただみね)

壬生忠岑の経歴

身分の低い下級武官であったが、歌人としては一流と賞されており、『古今和歌集』の撰者として抜擢された。官人としては、定外膳部、六位・摂津権大目に叙せられたことが『古今和歌集目録』にみえるが、『歌仙伝』『忠見集』などの記載によれば、これらの官職についたのは息子の忠見であったらしく、『目録』の記載は疑わしいとされる。確実なのは『古今和歌集』「仮名序」をはじめ、諸史料にみえる右衛門府生への任官だけである。 また、『大和物語』によると藤原定国の随身であったという。 後世、藤原定家、藤原家隆から『古今和歌集』の和歌の中でも秀逸であると作風を評価されている。藤原公任の著した『和歌九品』では、上品上という最高位の例歌として忠岑の歌があげられている。『拾遺和歌集』の巻頭歌にも撰ばれ、通常は天皇や皇族の歌を置いて儀礼的意義を高める勅撰集の巻頭歌に忠岑の歌が撰ばれたのは、彼の評価がそれだけ高かったからと言える。また、歌学書として『和歌十種』を著したとされるが、近時は10世紀後半以降、『拾遺和歌集』成立の頃に忠岑に仮託されて作られたものとみる説が有力である。『古今和歌集』(34首)以下の勅撰和歌集に81首が入首。家集『忠岑集』を残している。

壬生忠岑の代表歌

* 春立つといふばかりにやみ吉野の山も霞みてけさは見ゆらむ(拾遺・巻頭歌)
* 風吹けば峰にわかるる白雲の絶えてつれなき君が心か(古今・恋二・601)
* 有明のつれなく見えし別れより暁ばかり憂きものはなし(古今・恋三・625)
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