紀貫之

紀貫之の和歌

短 歌
人はいさ心も知らずふるさとは 花ぞ昔の香に匂ひける
意 味
人の心は変わりやすいものだから、今のあなたの気持ちはわかりません。しかし、この昔馴染みの里の梅だけは昔のままの懐かしい香りがします。

紀貫之の人物像

紀 貫之(き の つらゆき)は、平安時代前期の歌人。『古今和歌集』の選者のひとり。また三十六歌仙のひとりでもある。紀友則は従兄弟にあたる。 紀望行の子。幼名を「内教坊の阿古久曽(あこくそ)」と称したという。貫之の母が内教坊出身の女子だったので、貫之もこのように称したのではないかといわれる。 延喜5年(905年)、醍醐天皇の命により初の勅撰和歌集である『古今和歌集』を紀友則・壬生忠岑・凡河内躬恒と共に編纂し、仮名による序文である仮名序を執筆した。「やまとうたは人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」で始まるこの仮名序は、後代の文学に大きな影響を与えた。また『小倉百人一首』にも和歌が収録されている。理知的分析的歌風を特徴とし、家集『貫之集』を自撰した。 日本文学史上において、少なくとも歌人として最大の敬意を払われてきた人物である。種々の点でその実例が挙げられるが、勅撰歌人としては『古今和歌集』(101首)以下の勅撰和歌集に435首の和歌が入集しているのは他の歌人に比べて最高数であり、三代集時代の絶対的権威者であったといえる。 散文としては『土佐日記』がある。日本の日記文学で完本として伝存するものとしては最古のものであり、その後の仮名日記文学や随筆、女流文学の発達に大きな影響を与えた。 貫之の邸宅は、平安京左京一条四坊十二町に相当する。その前庭には多くの桜樹が植されており、「桜町」(さくらまち)と称されたという。その遺址は現在の京都御所富小路広場に当たる。 紀貫之(きのつらゆき)

紀貫之の逸話

その和歌の腕前は非常に尊重されていたらしく、天慶6年(943年)正月に、時の大納言・藤原師輔が、正月用の魚袋を父の太政大臣・藤原忠平に返す際に添える和歌の代作を依頼するために、わざわざ貫之の家を訪れたという。 貫之の詠んだ歌の力によって幸運がもたらされたという「歌徳説話」も数多く伝わっている。

紀貫之の代表歌

* 袖ひちてむすびし水のこほれるを春立つけふの風やとくらん(古今2)
* 霞たちこのめも春の雪ふれば花なきさとも花ぞちりける(古今9)
* 人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける(百人一首35)
* 吉野川いはなみたかく行く水のはやくぞ人を思ひそめてし(古今471)
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