左京大夫道雅

左京大夫道雅の和歌

短 歌
今はただ思ひ絶えなむとばかりを 人づてならでいふよしもがな
意 味
今はもうあなたのことをあきらめてしまおう、ということだけを、人づてでなく直接あなたに伝える方法があればいいのに

左京大夫道雅の人物像

藤原 道雅(ふじわら の みちまさ)は平安時代中期の公卿・歌人。儀同三司伊周の長男。一条天皇皇后定子の甥にあたる。 『小右記』によると、花山法皇の皇女を殺させた他、敦明親王の雑色長小野為明を凌辱し重傷を負わせた、博打場で乱行した、など乱行の噂が絶えなかった。このため、世上「荒三位」「悪三位」などと呼ばれたという。 その一方で和歌には巧みであり、中古三十六歌仙の1人としても知られている。『後拾遺和歌集』5首、『詞花和歌集』2首と勅撰和歌集に合わせて7首が入集。 小倉百人一首には、道雅が当子内親王に贈った歌が採られている。 左京大夫道雅(さきょうのだいぶみちまさ)

左京大夫道雅の生涯

祖父の中関白道隆に溺愛されて育つが、長徳元年(995年)に道隆は死去、さらに、翌年内大臣という高位にあった父・伊周が花山法皇に対し弓を射掛ける不敬事件を起こし大宰権帥に左遷され(長徳の変)、実家の中関白家が没落する中で成長する。

長保6年(1004年)に14歳で従五位下に叙せられる。寛弘8年(1011年)には春宮権亮となって敦成親王(後の後一条天皇)に仕える。長和4年(1015年)左近衛中将。長和5年(1016年)正月、後一条天皇践祚に際して藤原資平とともに蔵人頭に任じられたが、翌月春宮権亮としての功労という名目で従三位に叙せられて、在任8日目で蔵人頭を更迭されてしまう。更に同年9月に伊勢斎宮を退下し帰京した当子内親王と密通し、これを知った内親王の父三条院の怒りに触れて勅勘を被った。また、仲を裂かれた当子内親王は翌寛仁元年(1017年)に病により出家した。

万寿元年(1024年)12月6日に花山法皇の皇女である上東門院女房が夜中の路上で殺され、翌朝、死体が野犬に食われた姿で発見された[1]。この事件は朝廷の公家達を震撼させ、検非違使が捜査にあたり、翌万寿2年(1025年)7月25日に容疑者として法師隆範を捕縛、隆範は道雅の命で皇女を殺害したと自白する。結局、この事件はうやむやにされるものの、翌万寿3年(1026年)に道雅は左近衛中将・伊予権守を罷免され、右京権大夫(正五位上相当官)に左遷された。

その後、寛徳2年(1045年)左京大夫に転じるも、従三位から昇進できぬまま天喜2年(1054年)7月出家の直後に薨じた。

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