- 天智天皇
- 持統天皇
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- 中納言兼輔
- 源宗于朝臣
- 凡河内躬恒
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- 清原元輔
- 権中納言敦忠
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- 小式部内侍
- 伊勢大輔
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- 左京大夫道雅
- 権中納言定頼
- 相模
- 大僧正行尊
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- 良暹法師
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- 祐子内親王家紀伊
- 権中納言匡房
- 源俊頼朝臣
- 藤原基俊
- 法性寺入道前関白太政大臣
- 崇徳院
- 源兼昌
- 左京大夫顕輔
- 待賢門院堀河
- 後徳大寺左大臣
- 道因法師
- 皇太后宮大夫俊成
- 藤原清輔朝臣
- 俊恵法師
- 西行法師
- 寂蓮法師
- 皇嘉門院別当
- 式子内親王
- 殷富門院大輔
- 後京極摂政前太政大臣
- 二条院讃岐
- 鎌倉右大臣
- 参議雅経
- 前大僧正慈円
- 入道前太政大臣
- 権中納言定家
- 従二位家隆
- 後鳥羽院
- 順徳院
天智天皇
天智天皇の和歌
秋の田の かりほの庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ
秋の田のほとりに立てられた仮の小屋は、屋根の苫の網の目があらいので、私の袖は夜露でぬれてしまっているよ
天智天皇の人物像
天智天皇(てんちてんのう / てんじてんのう、推古34年(626年)- 天智天皇10年12月3日(672年1月7日))は第38代天皇。和風諡号は天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと / あまつみことさきわけのみこと)。一般には中大兄皇子(なかのおおえのおうじ / なかのおおえのみこ)として知られる。「大兄」とは、同母兄弟の中の長男に与えられた皇位継承資格を示す称号で、「中大兄」は「二番目の大兄」を意味する語。諱(実名)は葛城(かづらき/かつらぎ)。漢風諡号である「天智天皇」は、代々の天皇の漢風諡号と同様に、奈良時代に淡海三船によって撰進され、「殷最後の王である紂王の愛した天智玉」から名付けられたと言われる。 | ![]() |
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歌
万葉集に4首の歌が伝わる万葉歌人でもある。百人一首でも平安王朝の太祖として敬意が払われ、冒頭に以下の歌が載せられている。
秋の田の かりほの庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ
万葉集からも以下の一首。
香具山は畝傍を愛しと耳成と相争ひき神代よりかくなるらし古へもしかなれこそうつせみも褄を争ふらしき
天智天皇の事績
天智天皇の系譜
嬪:蘇我遠智娘(おちのいらつめ) - 蘇我倉山田石川麻呂女
大田皇女(おおたのひめみこ) - 天武天皇妃 、大津皇子・大来皇女母
鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ、持統天皇) - 天武天皇后、草壁皇子母
建皇子(たけるのみこ) - 夭逝
嬪:蘇我姪娘(めいのいらつめ、桜井娘) - 蘇我倉山田石川麻呂娘
御名部皇女(みなべのひめみこ) - 高市皇子妃、長屋王母
阿閇皇女(あへのひめみこ、元明天皇) - 草壁皇子妃、文武天皇・元正天皇・吉備内親王母
嬪:蘇我常陸娘(ひたちのいらつめ) - 蘇我赤兄女
山辺皇女(やまべのひめみこ) - 大津皇子妃
嬪:阿倍橘娘(たちばなのいらつめ) - 阿倍倉梯麻呂の女
明日香皇女(あすかのひめみこ)
新田部皇女(にいたべのひめみこ) - 天武天皇妃、舎人親王母
夫人:道君伊羅都売(いらつめ) - 道君氏女
志貴皇子(しきのみこ、施基皇子・春日宮天皇。後に親王) - 光仁天皇父
采女:宅子娘(やかこのいらつめ) - 伊賀国造某女?
大友皇子(おおとものみこ、弘文天皇)
(阿閇皇子 - 日本書紀に見えず、疑問)
(阿雅皇女 - 同上)
宮人:忍海造色夫古娘(しこぶこのいらつめ) - 忍海造小竜女
川島皇子(かわしまのみこ) - 淡海朝臣・春原朝臣祖
大江皇女(おおえのひめみこ) - 天武天皇妃、長皇子・弓削皇子母
泉皇女(いずみのひめみこ、後に内親王) - 伊勢斎宮
宮人:栗隈首黒媛娘(くろひめのいらつめ) - 栗隈首徳万女
水主皇女(みぬしのひめみこ、後に内親王)
天智天皇の略歴
推古34年(626年) - 誕生
皇極4年6月14日(645年7月12日) - 立太子
斉明7年7月24日(661年8月24日) - 称制
天智7年1月3日(668年2月20日) - 即位
天智10年12月3日(672年1月7日) - 宝算46で崩御
中大兄皇子が長く即位しなかったことは、7世紀中葉の政治史における謎の一つである。これに関する説がいくつか存在する。
1.天武天皇を推す勢力への配慮。即ち、従来定説とされてきた、天武天皇は天智天皇の弟であるというのは誤りで、皇極天皇が舒明天皇と結婚する前に生んだ漢皇子であり、彼は天智天皇の異父兄であるとする説に基づくものである。確かに、『日本書紀』の天智天皇と一部の歴史書に掲載される天武天皇の享年をもとに生年を逆算すれば、天武が年長となってしまう。しかし、同一史料間には矛盾は見られず、8~9歳程度の年齢差を設けている史料が多い。これに対しては「『父親が違うとはいえ、兄を差し置いて弟が』ということでは体裁が悪いので、意図的に天智の年齢を引き上げたのだ」との主張があるが、「『日本書紀』に見える、天智の年齢16歳は父舒明天皇が即位した時の年齢だったのを間違えて崩御した時の年齢にしてしまった。だから、本当の生年は本朝皇胤紹運録等が採用している614年だ」との反論、「古代においては珍しくなかった空位(実際、天武の前後に在位していた天智・持統も称制をしき、直ちに即位しなかった)の為に誤差が生じたのだ」との反論、また『日本書紀』と指摘されているその他歴史書は編纂された時代も性質も異なる為、同一には扱えないとの意見もある。
2.乙巳の変は軽皇子(孝徳天皇)のクーデターであり、中大兄皇子は地位を追われたという説。近年中大兄皇子と蘇我入鹿の関係が比較的良好であり、基本政策も似ていることが指摘されている。そうなると中大兄皇子が入鹿を殺害する動機がなくなる。また、日本書紀の大化の改新の記述には改竄が認められることから、この説が唱えられるようになった。また、この説では皇極天皇の退位の理由や入鹿以外の蘇我氏がクーデター後も追放されていない理由など、その他の疑問点も説明できるため注目を浴びている。
3.天智の女性関係に対しての反発から即位が遅れたとする説。これは、『日本書紀』に記載された孝徳天皇が妻の間人皇女(天智の同母妹)に当てた歌に彼女と天智との不倫関係を示唆するものがあるとするものである。異母兄弟姉妹間での恋愛・婚姻は許されるが、同母兄弟姉妹間でのそれは許されなかったのが当時の人々の恋愛事情だったとされる。
4.斉明天皇の死後に間人皇女が先々代の天皇の妃として皇位を継いでいたのであるが、何らかの事情で記録が抹消されたという説である。これは『万葉集』において「中皇命」なる人物を間人皇女とする説から来るもので、「中皇命」とは天智即位までの中継ぎの天皇であるという解釈出来るという主張である。もし間人皇女=「中皇命」とすれば、なぜ彼女だけが特別にこうした呼称で呼ばれる必要性があったのかを考えられるが、斉明天皇だとする説もあり、必ずしも確証は無い。
5.天智は元々有力な皇位継承者ではなかったために、皇太子を長く務めることでその正当性を内外に認知させようとした説。舒明の后には敏達・推古両天皇の皇女である田眼皇女がいるにも拘らず、敏達の曾孫に過ぎない皇極が皇后とされている点を問題とするもので、『日本書紀』の皇極を皇后とする記事を後世の顕彰記事と考え、天智は皇族を母とするとしても皇極の出自では有力な継承者になりえず、皇極の在位も短期間でその優位性を確立出来なかったために、乙巳の変後にも直ちに即位せずに皇族の長老である孝徳を押し立てて、自らは皇太子として内外に皇位継承の正当性を認知させる期間を要したとする説。
6.乙巳の変の意義を蘇我大臣家のみならず同家に支えられた実母・皇極天皇率いる体制打倒にあったとする観点から、孝徳天皇との対立→崩御の後に自らの皇位継承の正統性を確保するため、皇極天皇の重祚という乙巳の変の否認とも取られかねない行為を行ったことで群臣たちの信用を失った中大兄が信頼を回復するまでに相当の期間を必要としたとする説。
政治史という性質・史料の制約などもあり、証明は困難ではあるが、考古学的成果との連携などとも含め、今後の研究の進展が待たれる。