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大中臣能宣朝臣
大中臣能宣朝臣の和歌
短 歌
御垣守衛士のたく火の夜は燃え 昼は消えつつものをこそ思へ
御垣守衛士のたく火の夜は燃え 昼は消えつつものをこそ思へ
意 味
宮中の門を守る衛士のたくかがり火が、夜は燃え昼には消えるように、私の恋心も夜は恋しさに燃え、昼は消え入るように物思いに沈んでしる
宮中の門を守る衛士のたくかがり火が、夜は燃え昼には消えるように、私の恋心も夜は恋しさに燃え、昼は消え入るように物思いに沈んでしる
大中臣能宣朝臣の人物像
大中臣 能宣(おおなかとみ の よしのぶ、延喜21年(921年) - 正暦2年(991年)8月)は、平安時代中期の貴族・歌人。神祇大副・大中臣頼基の子。三十六歌仙の一人。官位は正四位下・祭主・神祇大副。 | ![]() |
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大中臣能宣朝臣の経歴
天延元年(973年)伊勢神宮祭主、寛和2年(986年)正四位下に叙位。
天暦5年(951年)梨壺の五人の一人に選ばれて和歌所寄人となり、『万葉集』の訓読と、『後撰和歌集』の撰集にあたった。冷泉天皇・円融天皇の大嘗会和歌を詠進したほか、円融天皇・花山天皇に家集を召されている。また歌合や屏風歌の制作でも活躍し、母娘二代の伊勢斎宮となった徽子女王・規子内親王家にも出入りした。
『拾遺和歌集』(59首)以下の勅撰和歌集に124首が入集。家集に『能宣集』がある。なお、百人一首に「みかきもり衛士のたく火の夜はもえ昼はきえつつ物をこそ思へ」が能宣作として入っているが、作者は能宣ではないとの説が有力である。
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