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前大僧正慈円
前大僧正慈円の和歌
おほけなく憂き世の民におほふかな わが立つ杣にすみ染の袖
身の程しらずながら仏法の師としてこの憂き世の民に覆いかけよう。比叡山に住みはじめて身に着けているこの墨染めの袖を
前大僧正慈円の人物像
慈円(じえん、久寿2年4月15日(1155年5月17日) - 嘉禄元年9月25日(1225年10月28日))は、平安時代末期・鎌倉時代の天台宗の僧。歴史書『愚管抄』を記した。諡号は慈鎮和尚。一般に吉水僧正とも呼ばれ、また『小倉百人一首』では、前大僧正慈円と称されている。慈円は関白・藤原忠通と加賀局(藤原仲光の娘)の子(十一男)で、忠通の六男・九条兼実の同母弟である。 |
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前大僧正慈円の略歴
幼いときに青蓮院に入寺し、仁安2年(1167年)天台座主・明雲について受戒。建久2年(1192年)、38歳で天台座主になる。その後、慈円の天台座主就任は4度に及んだ。『徒然草』には、一芸ある者なら身分の低い者でも召しかかえてかわいがったとある。
天台座主として法会や伽藍の整備のほか、政治的には兄・兼実の孫・九条道家の後見人を務めるとともに、道家の子・藤原頼経が将軍として鎌倉に下向することに期待を寄せるなど、公武の協調を理想とした。後鳥羽上皇の挙兵の動きには西園寺公経とともに反対し、『愚管抄』もそれを諌めるために書かれたとされる。だが、承久の乱によって後鳥羽上皇とともに兼実の曾孫である仲恭天皇(道家の甥)が廃位されたことに衝撃を受け、鎌倉幕府を非難して仲恭帝復位を願う願文を納めている。 また、『門葉記』に採録された覚源(藤原定家の子)の日記[2]には、没後に慈円が四条天皇を祟り殺したとする噂を記載している。
また、当時異端視されていた専修念仏の法然の教義を批判する一方で、その弾圧にも否定的で法然や弟子の親鸞を庇護してもいる。なお、親鸞は治承5年(1181年)9歳の時に慈円について得度を受けている。
歌人としても有名で家集に『拾玉集』があり、『千載和歌集』などに名が採り上げられている。『沙石集』巻五によると、慈円が西行に天台の真言を伝授してほしいと申し出たとき、西行は和歌の心得がなければ真言も得られないと答えた。そこで慈円は和歌を稽古してから再度伝授を願い出たという。また、『井蛙抄』に残る逸話に、藤原為家に出家を思いとどまらせて藤原俊成・藤原定家の跡をますます興させるようにしたという。 越天楽今様の作詞者でもある。