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藤原義孝
藤原義孝の和歌
短 歌
君がため惜しからざりし命さへ 長くもがなと思ひけるかな
君がため惜しからざりし命さへ 長くもがなと思ひけるかな
意 味
あなたに会うためなら死んでも惜しくはないと思っていましたが、逢って帰った今では長くあってほしいものだと思うようになった
あなたに会うためなら死んでも惜しくはないと思っていましたが、逢って帰った今では長くあってほしいものだと思うようになった
藤原義孝の人物像
藤原義孝(ふじわら の よしたか、天暦8年(954年) - 天延2年9月16日(974年11月8日))は、平安時代中期の公家・歌人。摂政・太政大臣・藤原伊尹の三男(または四男)。子に三蹟の一人藤原行成がいる。中古三十六歌仙の一人。官位は正五位下・右少将。後少将と号す。 | ![]() |
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藤原義孝の経歴
侍従・左兵衛佐・春宮亮を歴任した後、971年(天禄2年)右少将に任官。972年(天禄3年)正五位下に叙せられる。974年(天延2年)当時流行した疱瘡(天然痘)にかかり、兄・藤原挙賢と同日に21歳の若さで没した。
藤原義孝の人物
仏教への信仰心が篤かった。また、美貌で知られ、疱瘡で顔に傷痕が残って醜くなり自殺したとも言われている。怨霊になったという伝説もある。
藤原義孝の逸話
義孝の信仰心を示す逸話として、以下のようなものがある。
* 病気で危篤になった際、一旦自らが息を引き取っても『法華経』を誦えるためにしばらく生き長らえるので、通常通りの葬儀の作法で死者扱いしないように、母親に依頼した。
* 賀縁(阿闍梨)や藤原実資は、義孝が極楽に往生している夢を見た。
* 義孝は夜中に世尊寺の邸宅に戻ると、礼拝の言葉を発しながら、西の方を向いて何度も拝礼していた。
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