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中納言朝忠
中納言朝忠の和歌
短 歌
逢ふことの絶えてしなくはなかなかに 人をも身をも恨みざらまし
逢ふことの絶えてしなくはなかなかに 人をも身をも恨みざらまし
意 味
もし逢うことがまったくなかったら、相手の無情やわが身のつらさを恨んだりすることもないだろうに
もし逢うことがまったくなかったら、相手の無情やわが身のつらさを恨んだりすることもないだろうに
中納言朝忠の人物像
藤原 朝忠(ふじわら の あさただ、延喜10年(910年) - 康保3年12月2日(967年1月15日))は、平安時代中期の公家・歌人。藤原北家、三条右大臣・藤原定方の五男。三十六歌仙の一人。官位は従三位・中納言。土御門中納言または堤中納言と号する。歌人として『後撰和歌集』(4首)以下の勅撰和歌集に21首が入集[1]。家集に『朝忠集』がある。小倉百人一首の歌は『天徳内裏歌合』で六番中五勝した中の一首である。また、和歌のほかに笛や笙に秀でていた。『百人一首夕話』には、座るのも苦しいほどの肥満体で痩せるために水飯を食べるように医師に勧められたが、かえって太ったという逸話がある。しかし、これは『古今著聞集』や『宇治拾遺物語』にある「三条中納言水飯事」が出典と思われるが、そこで語られる三条中納言は藤原朝成のことであり、朝忠が肥満体であったというのは『百人一首夕話』の作者の勘違いであると思われる。 | ![]() |
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中納言朝忠の経歴
延長4年(926年)従五位下に叙爵。侍従を経て延長8年(930年)朱雀天皇の即位に伴い五位蔵人となる。のち右兵衛佐・左近衛権少将・左近衛中将など武官を歴任する傍らで地方官を兼ねる。この間、天慶6年(943年)には従四位下に、天慶9年(946年)には村上天皇即位の大嘗会で悠紀方の和歌を詠んだ労により従四位上に昇叙されている。
天暦6年(952年)参議として公卿に列す。天暦10年(956年)讃岐守、天徳2年(958年)備中守。応和元年(961年)従三位に叙され、応和3年(963年)中納言に任じられた。議政官として右衛門督・検非違使別当を兼帯するが、康保2年(965年)10月頃以降中風により政務に就くことが困難となり、同年11月右衛門督などの兼務を辞任。翌康保3年12月2日(967年1月)没。享年58。最終官位は中納言従三位。
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