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藤原基俊
藤原基俊の和歌
短 歌
契りおきしさせもが露を命にて あはれ今年の秋もいぬめり
契りおきしさせもが露を命にて あはれ今年の秋もいぬめり
意 味
約束してくださった恵みの露のような「させも草」の古歌を頼りに生きてきたのに、今年の秋もむなしく過ぎ去っていきます
約束してくださった恵みの露のような「させも草」の古歌を頼りに生きてきたのに、今年の秋もむなしく過ぎ去っていきます
藤原基俊の人物像
藤原 基俊(ふじわら の もととし、康平3年(1060年)- 永治2年1月16日(1142年2月13日))は、平安時代後期の公家・歌人。父は右大臣藤原俊家。 藤原氏の主流である藤原北家の出身で藤原道長の曾孫にあるが、官位には恵まれず従五位上左衛門佐にとどまった。1138年(保延4年)に出家し、覚舜(かくしゅん)と称した。 | ![]() |
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藤原基俊の和歌
歌壇への登場も遅かったが、歌合では作者のほか、多くの判者もつとめ、源俊頼とともに院政期の歌壇の指導者として活躍した。革新的な作風であった俊頼に対し、基俊の作風は古い歌風を重んじたものであったという。晩年には藤原俊成を弟子に迎えた。漢詩文にも通じ「新撰朗詠集」を撰集している。
「金葉和歌集」以下の勅撰和歌集に百余首入集。家集に「基俊集」がある。
書家として
書家としても名があり、現存する書跡には次のものがある。
* 多賀切和漢朗詠集
陽明文庫蔵。下巻末にあたる部分の断簡に、本文と同筆で「永久四年(1116年)孟冬二日、扶老眼点了、愚叟基俊」と二行の奥書きがあり、さらに別筆で「おなじとし月によみはてつ」と記されている。このように年代と筆者が明記された書跡は、現存するおびただしい平安時代の遺品の中でも稀である。
* 山名切新撰朗詠集
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