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- 入道前太政大臣
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- 後鳥羽院
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俊恵法師
俊恵法師の和歌
短 歌
夜もすがらもの思ふころは明けやらぬ ねやのひまさへつれなかりけり
夜もすがらもの思ふころは明けやらぬ ねやのひまさへつれなかりけり
意 味
一晩中、恋人のつれなさを恨んで物思いに沈んでいるこのごろは、なかなか朝日を運んでこない寝室の戸の隙間まで無常に思える
一晩中、恋人のつれなさを恨んで物思いに沈んでいるこのごろは、なかなか朝日を運んでこない寝室の戸の隙間まで無常に思える
俊恵法師の人物像
俊恵(しゅんえ、永久元年(1113年) - 建久2年(1191年)頃?)は、平安時代末期の僧・歌人。父は源俊頼。母は橘敦隆の娘。早くに東大寺の僧となり、俊恵法師とも呼ばれる。 十七歳のときに父と死別してから、約二十年もの間、作歌活動から遠ざかっていた。現在、俊恵作と伝えられている歌は千百首あまりであるが、その多くは四十歳以降に詠まれたものである。白川の自坊を「歌林苑」と名付け、そこに藤原清輔・源頼政・殷富門院大輔など多くの歌人を集めてさかんに歌会・歌合を開催し、歌壇に大きな刺激を与えた。鴨長明の師で、その歌論は『無名抄』などにもみえる。風景と心情が重なり合った象徴的な美の世界や、余情を重んじて中世的なもの静かさが漂う世界を和歌のうえで表現しようとした。 「詞花和歌集」以下の勅撰集に入集。「歌苑抄」「歌林抄」などの選集を編集し、家集には「林葉和歌集」がある。 |
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