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曽禰好忠
曽禰好忠の和歌
短 歌
由良の門を渡る舟人かぢを絶え ゆくへも知らぬ恋のみちかな
由良の門を渡る舟人かぢを絶え ゆくへも知らぬ恋のみちかな
意 味
由良の迫門(せと)を漕ぎ渡る舟人がかいをなくして行方もわからず流されてしまうように、どうなって行くのかわからない私の恋の道だ
由良の迫門(せと)を漕ぎ渡る舟人がかいをなくして行方もわからず流されてしまうように、どうなって行くのかわからない私の恋の道だ
曽禰好忠の人物像
曾禰 好忠(そね の よしただ、生没年不詳)は、平安時代中期の歌人。出自については未詳。中古三十六歌仙の一人。官位は六位・丹後掾。長く丹後掾を務めたことから曾丹後(そたんご)とも曾丹(そたん)とも称された。 | ![]() |
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曽禰好忠の経歴
当時としては和歌の新しい形式である「百首歌」を創始し、さらに1年を360首に歌いこめた「毎月集」を作った。当時の有力歌人であった源順・大中臣能宣・源重之らと交流があったが、偏狭な性格で自尊心が高かったことから、社交界に受け入れられず孤立した存在であった。新奇な題材や『万葉集』の古語を用いて斬新な和歌を読み、平安時代後期の革新歌人から再評価された。
曽禰好忠の逸話
寛和元年(985年)円融上皇の紫野での子の日の御遊において、官位に関係なく歌人の和歌を鑑賞する趣向の催しが開かれた際、催しに呼ばれていないにもかかわらず、好忠は召された歌人方の席に強引に着席したところ、藤原実資・藤原朝光の指図により追い出されたという。
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