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清原元輔
清原元輔の和歌
短 歌
契りきなかたみに袖をしぼりつつ 末の松山波越さじとは
契りきなかたみに袖をしぼりつつ 末の松山波越さじとは
意 味
二人は固く約束しましたよね。おたがいに涙にぬれた袖を絞りながら、あの末の松山を決して波が越えないようにどんなことがあっても二人の仲はかわらないと
二人は固く約束しましたよね。おたがいに涙にぬれた袖を絞りながら、あの末の松山を決して波が越えないようにどんなことがあっても二人の仲はかわらないと
清原元輔の人物像
清原 元輔(きよはら の もとすけ、延喜8年(908年)- 永祚2年(990年)6月)は平安時代の歌人・官人。内蔵允・清原深養父の孫で、下総守・清原春光の子[2]。娘に清少納言がいる。三十六歌仙の一人。官位は従五位上・肥後守。 | ![]() |
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清原元輔の経歴
天暦5年(951年)河内権少掾に任ぜられ、のちに少監物・中監物・大蔵少丞・民部少丞・同大丞などを歴任する。安和2年(969年)従五位下・河内権守となった後、天延2年(974年)周防守に鋳銭長官を兼ねる。天元3年(980年)従五位上、寛和2年(986年)肥後守と主に地方官を歴任。永祚2年(990年)任地にて没。熊本市の清原神社(北岡神社飛地境内)に、祭神として祀られている。
『今昔物語集』28巻や『宇治拾遺物語』13巻には、元輔が賀茂祭の奉幣使を務めた際に落馬し、禿頭であったため冠が滑り落ちたさまを見物人が笑うと、元輔は脱げ落ちた冠をかぶろうともせずに、物見車の一台一台に長々と弁解し、理屈を述べて歩いた。その様子を見て、見物人はさらに面白がったという話がある。清原元輔のひょうきんな一面をうかがうことができる。
歌人としての評価
梨壺の五人のひとりとして、『万葉集』の訓読や『後撰和歌集』の編纂に当たった。『拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に約100首が入集。深養父・元輔・清少納言はともに小倉百人一首に和歌が採られている。家集に『元輔集』がある。
元輔が歌人として高名だったことは『枕草子』に見え、女房勤めした折に清少納言が「父の名を辱めたくないので歌は詠まない」といって許されたという逸話がある。
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