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左京大夫顕輔
左京大夫顕輔の和歌
短 歌
秋風にたなびく雲のたえ間より れ出づる月の影のさやけさ
秋風にたなびく雲のたえ間より れ出づる月の影のさやけさ
意 味
秋風にたなびいている雲の切れ間からもれて出てくる月の光のなんという澄み切った明るさだろう
秋風にたなびいている雲の切れ間からもれて出てくる月の光のなんという澄み切った明るさだろう
左京大夫顕輔の人物像
藤原 顕輔(ふじわら の あきすけ、寛治4年(1090年) - 久寿2年5月7日(1155年6月8日))は、平安時代後期の公家・歌人。修理大夫・藤原顕季の三男。官位は正三位・左京大夫。六条と号す。 | ![]() |
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左京大夫顕輔の経歴
康和2年(1100年)1月に白河上皇の院判官代に任ぜられて以降、院の近臣として昇進した。加賀守や中務権大輔を経て、元永元年(1118年)12月正四位下に昇る。大治2年(1127年)1月、讒言により白河院の勘気を蒙って昇殿を止められたが、白河院崩御の翌年(1130年)関白藤原忠通の娘聖子が崇徳天皇の中宮に冊立されると、中宮亮となり官界に復帰。保延3年(1137年)10月従三位に叙せられて公卿に列し、同5年(1139年)1月左京大夫に任じられ、久安4年(1148年)7月正三位に至った。久寿2年(1155年)5月7日に薨去。享年66。
周辺に優れた歌人が多く、永久4年(1116年)の鳥羽殿北面歌合・六条宰相家歌合や久安6年(1150年)の「久安百首」など、多数の歌会・歌合で活躍し、父から六条藤家の象徴である人麻呂影供(ひとまろえいぐ)を受け継いだ。天養元年(1144年)6月に崇徳上皇から勅撰集撰進の命を受けて、仁平元年(1151年)に『詞花和歌集』を完成させ、奏覧に供した。
『金葉和歌集』(14首)以下の勅撰和歌集に84首が入集しており[1]、家集には『左京大夫顕輔卿集(顕輔集)』がある。
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