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在原業平朝臣
在原業平朝臣の和歌
短 歌
ちはやぶる神代も聞かず竜田川 からくれなゐに水くくるとは
ちはやぶる神代も聞かず竜田川 からくれなゐに水くくるとは
意 味
不思議なことが多かった神代にも聞いたことがない。竜田川が美しい紅色にくくり染めにするなどということは
不思議なことが多かった神代にも聞いたことがない。竜田川が美しい紅色にくくり染めにするなどということは
在原業平朝臣の人物像
在原 業平(ありわら の なりひら、825年(天長2年) - 880年7月9日(元慶4年5月28日))は、平安時代初期の貴族・歌人。平城天皇の孫。贈一品・阿保親王の五男。官位は従四位上・蔵人頭・右近衛権中将。六歌仙・三十六歌仙の一人。また『伊勢物語』の主人公とみなされている。別称の在五中将は在原氏の五男であったことによる。 | ![]() |
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在原業平朝臣の概要
出自
父は平城天皇の第一皇子・阿保親王、母は桓武天皇の皇女・伊都内親王で、業平は父方をたどれば平城天皇の孫・桓武天皇の曾孫であり、母方をたどれば桓武天皇の孫にあたる。血筋からすれば天皇家の嫡流ともいえるが、薬子の変により皇統が嵯峨天皇の子孫へ移っていたこともあり、天長3年(826年)、父・阿保親王の上表によって臣籍降下し、兄・行平らとともに在原氏を名乗る。
経歴
仁明天皇の蔵人となり、849年(嘉祥2年)従五位下に叙爵されるが、文徳天皇の代になると全く昇進が止まり不遇な時期を過ごした。清和天皇のもとで再び昇進し、862年(貞観4年)従五位上に叙せられたのち、左兵衛権佐・左近衛権少将・右近衛権中将と武官を歴任、873年(貞観15年)には従四位下に昇叙される。陽成朝でも順調に昇進し、877年(元慶元年)従四位上、879年(元慶3年)には蔵人頭に叙任された。また、文徳天皇の皇子・惟喬親王に仕え、和歌を奉りなどしている。 880年7月9日(元慶4年5月28日)卒去。享年56。最終官位は蔵人頭従四位上行右近衛権中将兼美濃権守。
人物
業平は『日本三代実録』に「体貌閑麗、放縦不拘」と記され、美男の代名詞のようにいわれる。早くから『伊勢物語』の主人公の、いわゆる「昔男」と同一視されてきた。『伊勢物語』では、文徳天皇の第一皇子でありながら母が藤原氏ではないために帝位につけなかった惟喬親王との交流や、清和天皇女御でのち皇太后となった二条后(藤原高子)、惟喬親王の妹である伊勢斎宮恬子内親王とみなされる高貴な女性たちとの禁忌の恋などが語られ、先の「放縦不拘(物事に囚われず奔放なこと)」という描写と相まって、高尊の生まれでありながら反体制的な貴公子というイメージがある。なお『伊勢物語』成立以降、恬子内親王との間には密通によって高階師尚が生まれたという説が派生し、以後高階氏は業平の子孫ではないかと噂された。 歌人としては『古今和歌集』の30首を始め、勅撰和歌集に87首が入集している[1]。子の棟梁・滋春、棟梁の子・元方はみな歌人として知られる。鷹狩に執着した桓武天皇の子孫だけあり、兄・行平ともども鷹狩の名手であったと伝えられる。一方、上引の『日本三代実録』の卒伝においては、学才はほとんど無かったと記されている。 紀有常女(惟喬親王の従姉にあたる)を妻とし、紀氏と交流があった。しかし一方で、藤原基経の四十の賀で和歌を献じたり、また長男・棟梁の娘は祖父譲りの美貌で基経の兄・藤原国経の妻となったのち、基経の嫡男時平の妻になるなど、とくに子孫は藤原氏との交流も浅からずある。また業平自身、晩年には蔵人頭という要職にも就き、薬子の変により廃太子させられた叔父の高岳親王など他の平城系の皇族や、あるいは当時の藤原氏以外の貴族と比較したばあい、むしろ兄・行平ともども政治的には中枢に位置しており、『伊勢物語』の「昔男」や『日本三代実録』の記述から窺える人物像と実情には相違点もある。ちなみに『日本三代実録』の業平卒伝(元慶4年5月28日条)は、阿保親王の品位を四品と誤記している。在原業平朝臣の代表歌
世の中に たえて櫻の なかりせば 春の心は のどけからまし — 『古今和歌集』撰歌。
ちはやぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くゝるとは — 『古今和歌集』『小倉百人一首』撰歌。
から衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞ思ふ — 『古今和歌集』撰歌。
名にし負はば いざこと問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと — 『古今和歌集』撰歌。
月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ 我が身ひとつは もとの身にして —『古今和歌集』巻十五、恋歌五。