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殷富門院大輔
殷富門院大輔の和歌
短 歌
見せばやな雄島の海人の袖だにも 濡れにぞ濡れし色は変はらず
見せばやな雄島の海人の袖だにも 濡れにぞ濡れし色は変はらず
意 味
涙で色まで変わった私の袖をお見せいたしたい。あの松島の雄島の漁夫の袖と濡れ方は同じだけれど、色が変わったりしないのに
涙で色まで変わった私の袖をお見せいたしたい。あの松島の雄島の漁夫の袖と濡れ方は同じだけれど、色が変わったりしないのに
殷富門院大輔の人物像
殷富門院大輔(いんぷもんいんのたいふ、生没年不詳:大治5年(1130年)頃 - 正治2年(1200年)頃)は、平安時代末期に活躍した歌人である。女房三十六歌仙の一人。父は藤原北家勧修寺流従五位下藤原信成。母は従四位式部大輔菅原在良の娘。一説に道尊僧正の母ともされる。 |
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殷富門院大輔の経歴
若い頃から後白河院の第1皇女・殷富門院(亮子内親王)に出仕、それに伴い歌壇で長年にわたり活躍した。俊恵が白川の自坊で主宰した歌林苑(宮廷歌人の集まり)のメンバーでもあり、藤原定家・寂蓮・西行・源頼政など多くの歌人と交際があった。また、文治3年(1187年)の百首歌等、自ら主催して定数歌や歌会の催しを行うこともあった。建久3年(1192年)の殷富門院出家に伴って自らも出家したとされる。私家集である『殷富門院大輔集』、及び『千載和歌集』以降の勅撰集、その他私撰集等に多数の作品を残している。
殷富門院大輔の逸話
鴨長明が『無名抄』の中で「近く女歌よみの上手にては、大輔・小侍従とてとりどりにいはれ侍りき(=近ごろの女流歌人のなかで上手なのは殷富門院大輔と小侍従であるとさまざまにいわれている)」と述べる等、当時最高の女流歌人であると目されていた。その歌風は『歌仙落書』によると「古風を願ひてまたさびたるさまなり(=古いスタイルの和歌を手本として古風な趣がある)」と評されたが、一方では、本歌取りや初句切れを多用した技巧的な面もある。また、多作家としても知られ、「千首大輔」の異名もあった。
そのライバルと目されていた小侍従と夜通し連歌に興じることもあった。
殷富門院大輔の書家として
書家としても名があり、現存する書跡には以下のものがある。
一品経和歌懐紙熊野懐紙
平安時代から鎌倉時代初期の古筆類は、伝称筆者は多いものの確実なものが少ない中で、この2つの書跡はともに署名があり、筆者の確実な自筆詠草である。
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