- 天智天皇
- 持統天皇
- 柿本人麻呂
- 山部赤人
- 猿丸大夫
- 中納言家持
- 阿倍仲麻呂
- 喜撰法師
- 小野小町
- 蝉丸
- 参議篁
- 僧正遍昭
- 陽成院
- 河原左大臣
- 光孝天皇
- 中納言行平
- 在原業平朝臣
- 藤原敏行朝臣
- 伊勢
- 元良親王
- 素性法師
- 文屋康秀
- 大江千里
- 菅家
- 三条右大臣
- 貞信公
- 中納言兼輔
- 源宗于朝臣
- 凡河内躬恒
- 壬生忠岑
- 坂上是則
- 春道列樹
- 紀友則
- 藤原興風
- 紀貫之
- 清原深養父
- 文屋朝康
- 右近
- 参議等
- 平兼盛
- 壬生忠見
- 清原元輔
- 権中納言敦忠
- 中納言朝忠
- 謙徳公
- 曽禰好忠
- 恵慶法師
- 源重之
- 大中臣能宣朝臣
- 藤原義孝
- 藤原実方朝臣
- 藤原道信朝臣
- 右大将道綱母
- 儀同三司母
- 大納言公任
- 和泉式部
- 紫式部
- 大弐三位
- 赤染衛門
- 小式部内侍
- 伊勢大輔
- 清少納言
- 左京大夫道雅
- 権中納言定頼
- 相模
- 大僧正行尊
- 周防内侍
- 三条院
- 能因法師
- 良暹法師
- 大納言経信
- 祐子内親王家紀伊
- 権中納言匡房
- 源俊頼朝臣
- 藤原基俊
- 法性寺入道前関白太政大臣
- 崇徳院
- 源兼昌
- 左京大夫顕輔
- 待賢門院堀河
- 後徳大寺左大臣
- 道因法師
- 皇太后宮大夫俊成
- 藤原清輔朝臣
- 俊恵法師
- 西行法師
- 寂蓮法師
- 皇嘉門院別当
- 式子内親王
- 殷富門院大輔
- 後京極摂政前太政大臣
- 二条院讃岐
- 鎌倉右大臣
- 参議雅経
- 前大僧正慈円
- 入道前太政大臣
- 権中納言定家
- 従二位家隆
- 後鳥羽院
- 順徳院
左京大夫道雅
左京大夫道雅の和歌
短 歌
今はただ思ひ絶えなむとばかりを 人づてならでいふよしもがな
今はただ思ひ絶えなむとばかりを 人づてならでいふよしもがな
意 味
今はもうあなたのことをあきらめてしまおう、ということだけを、人づてでなく直接あなたに伝える方法があればいいのに
今はもうあなたのことをあきらめてしまおう、ということだけを、人づてでなく直接あなたに伝える方法があればいいのに
左京大夫道雅の人物像
藤原 道雅(ふじわら の みちまさ)は平安時代中期の公卿・歌人。儀同三司伊周の長男。一条天皇皇后定子の甥にあたる。 『小右記』によると、花山法皇の皇女を殺させた他、敦明親王の雑色長小野為明を凌辱し重傷を負わせた、博打場で乱行した、など乱行の噂が絶えなかった。このため、世上「荒三位」「悪三位」などと呼ばれたという。 その一方で和歌には巧みであり、中古三十六歌仙の1人としても知られている。『後拾遺和歌集』5首、『詞花和歌集』2首と勅撰和歌集に合わせて7首が入集。 小倉百人一首には、道雅が当子内親王に贈った歌が採られている。 | ![]() |
---|
左京大夫道雅の生涯
祖父の中関白道隆に溺愛されて育つが、長徳元年(995年)に道隆は死去、さらに、翌年内大臣という高位にあった父・伊周が花山法皇に対し弓を射掛ける不敬事件を起こし大宰権帥に左遷され(長徳の変)、実家の中関白家が没落する中で成長する。
長保6年(1004年)に14歳で従五位下に叙せられる。寛弘8年(1011年)には春宮権亮となって敦成親王(後の後一条天皇)に仕える。長和4年(1015年)左近衛中将。長和5年(1016年)正月、後一条天皇践祚に際して藤原資平とともに蔵人頭に任じられたが、翌月春宮権亮としての功労という名目で従三位に叙せられて、在任8日目で蔵人頭を更迭されてしまう。更に同年9月に伊勢斎宮を退下し帰京した当子内親王と密通し、これを知った内親王の父三条院の怒りに触れて勅勘を被った。また、仲を裂かれた当子内親王は翌寛仁元年(1017年)に病により出家した。
万寿元年(1024年)12月6日に花山法皇の皇女である上東門院女房が夜中の路上で殺され、翌朝、死体が野犬に食われた姿で発見された[1]。この事件は朝廷の公家達を震撼させ、検非違使が捜査にあたり、翌万寿2年(1025年)7月25日に容疑者として法師隆範を捕縛、隆範は道雅の命で皇女を殺害したと自白する。結局、この事件はうやむやにされるものの、翌万寿3年(1026年)に道雅は左近衛中将・伊予権守を罷免され、右京権大夫(正五位上相当官)に左遷された。
その後、寛徳2年(1045年)左京大夫に転じるも、従三位から昇進できぬまま天喜2年(1054年)7月出家の直後に薨じた。
ここでクリア