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権中納言定頼
権中納言定頼の和歌
短 歌
朝ぼらけ宇治の川霧たえだえに あらはれわたる瀬々の網代木
朝ぼらけ宇治の川霧たえだえに あらはれわたる瀬々の網代木
意 味
冬の夜が白々と明けるころ、宇治川の川面に立ち込めた朝霧が途切れ途切れになりその間に川瀬の網代木がつぎつぎと現れている。
冬の夜が白々と明けるころ、宇治川の川面に立ち込めた朝霧が途切れ途切れになりその間に川瀬の網代木がつぎつぎと現れている。
権中納言定頼の人物像
藤原 定頼(ふじわら の さだより、長徳元年(995年) - 寛徳2年1月19日(1045年2月8日))は平安時代中期の公家・歌人。権大納言・藤原公任の長男。官位は正二位・権中納言。四条中納言と称される。中古三十六歌仙の一人。 | ![]() |
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権中納言定頼の概要
寛弘4年(1007年)元服、従五位下。侍従・右少将・右中弁などを経て、寛仁元年(1017年)正四位下・蔵人頭に叙任。寛仁4年(1020年)参議・右大弁として公卿に列す。治安2年(1022年)従三位、長元2年(1029年)権中納言、長久3年(1042年)正二位。寛徳元年(1044年)病のため出家。
少し軽薄な性格であったようで、小式部内侍にやり込められた逸話が残っている。相模や大弐三位などと関係を持った。音楽・読経・書の名手であり、容姿も優れていたという。
権中納言定頼の逸話
一条天皇の大堰川行幸のお供で和歌を詠んだときのこと、父の公任も同行していて定頼の歌の出来映えを心配していた。すると定頼の番になり読み手が上の句を「水もなく見え渡るかな大堰川」と読み始めた。満々たる大堰川を前にして「水もなく」とはどういうつもりだ、何という不調法な、と公任が思っていると「峰の紅葉は雨と降れども」と朗々と下の句を詠み上げた。そのあまりの見事さに、公任もうれしさをこらえきれず、思わず会心の笑みを漏らしたという。
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